生きているとは、自然に逆らうこと!?
昨日、テレ東の「家ついてっていいですか?」を見ていましたら、取材をされた方の故郷に約50年ぶりに帰ってみるという特別企画をやっていました。
帰郷先はかつて北海道の炭鉱で栄えた町。
現在は炭鉱も閉鎖されているので、彼は町は寂れているだろうと予想はしていたのですが、実際行ってみると想像以上に何もなくなっていたんですね。
特に実家があったところは、両親が入植して開墾したはずの土地が草木に覆われてしまっていました。
それを見て彼が、両親がきた時はこんなだったんだろうな、そんな初めの姿に戻ってしまったとの趣旨の言葉をつぶやきました。
人が耕して田畑を広げ家を建てた土地でも、何十年か放置されると元に戻ってしまう。
その土地のあるべき姿になっていってしまうのか、、と見ている側も考えさせられました。
そこに同じように人が住み続けていれば、人の住む環境は保たれていたはずです。
この横浜のように、開発された山が木に覆われたりすることはないのです。
このことは、人のからだにおいても同じだなと思いました。
人のからだが人として存在するには、自然に逆らっているという側面があります。
自然においては、冷たいものは下降し、暖かいものは上昇します。
ですが、人体内においては、陰の経絡は下から上に、陽の経絡は上から下に流れています。
能動的に物理現象と逆の動きがあるから、全身が温まり、その熱で活動でき、それを制御できているんですね。
そういうふうに気が通っているから、気が全身をめぐっているからそれが可能なのであり、逆に言うと死とはそういった気の活動が停止した状態といえます。
なので、死ぬと、陰である肉体は陰である下へ、つまり土へ還り、陽である魂はからだから抜けて天へ上っていく、つまり自然と同化していくのです。
また、人のからだから排出されたものは穢れたものとされますが、けがれ=気枯れで気がなくなったものという意味で、それらは自然と同化します。
以前もこのお話しにふれましたが。
subaruhari9.hatenablog.com
このように、人(生き物)は自然に逆らった存在なのに、季節や昼夜のリズムに応じた生活をすることが大切、自然に逆らわずに生きるのがよい、と言われます。
このことは東洋医学の基本でもあります。
これはどういうことなのか。
人のからだは自然と逆の動きをしているからこそ存在しうるとはいえ、自然から断絶しても生きていけません。
生命活動のエネルギー、つまり気を巡らせる原動力はよそから、つまり自分を取り巻く自然からしか得られないからです。
食べ物にしても、暖かさなどの気候にしても、自然から得たものを利用しなければ死んでしまいます。
ということであれば、エネルギーをより有効に利用するために、できるだけ効率よくそれらを得ることが必要になってきます。
それが、季節などの自然のリズムに合わせた生活ということになるんですね。
夏には夏の暑さを利用して活動し、冬は冬の寒さに逆らわず引きこもり、その時々に採れる一番栄養がある食べ物を摂る。
そうすれば、からだへのダメージも少なく済み、命を長らえることができるよと。
そういうことを、東洋医学ではあれこれ説明しています。
自然に逆らった存在を存続させるには、自然に従った生活をすることが大事、とはなんとも矛盾に満ちた話ですが、生物の存在自体、自然界から見たらヘンなもの、矛盾したものなのかもしれないですね。
生きてるということは、ほんの数十年、人体という自然から独立した存在を与えられた状態だといえます。
せっかくなのでできるだけ効率的に長らえるよう、自然に合わせて生活してみてはいかがでしょうか。
現代社会、なかなか難しいですが。