涙はどうして汚く感じないのか?
悲しかったり、うれしかったりすると零れ落ちるのが涙です。
感動したり、ショックを受けたりした時も、流れることがありますね。
涙はからだから分泌される体液の一つです。
そういうものは他にもありますが、涙に限ってはあまり不潔な感じがしませんね。
からだから外に分泌されたり、排出されたものに対して、通常人は「汚い」と感じます。
頭の方からみていくと、
- 鼻水
- 唾液
- 痰
- 膿
- 汗
- 尿
- 大便
- 経血
など、列挙するとうげぇ…と思ってしまいますね。
このほかにも、からだからいったん離れたものは汚く感じます。
例えば、髪の毛、フケ、垢、爪、かさぶたなどでしょうか。
不快なにおいをともなうものもありますが、いずれもついさっきまでからだの中にあったり、からだの一部だったものなのです。
いわば分身と言ってもいい存在なのに、愛おしさはみじんも感じません。
髪の毛など、それ自体は細菌の塊という訳でもないのに、食事に入っていたら即クレームです。
この感覚はどこからくるのでしょうか。
人のからだは、常に気がめぐっていることにより活動ができています。
気がめぐっていることで五臓が働き、気血津液がからだを養い、体温を保ったり、外からの邪から守ったりしているのですね。
気はどこをめぐっているのかというと、五臓六腑の各経絡を順番にめぐっています。
各経絡はからだの手足や顔、腹や背中などをそれぞれめぐっていて、鍼灸治療に使っている経穴(ツボ)もこれらの経絡上にあります。
肺経→大腸経→胃経→脾経→心経→小腸経→膀胱経→腎経→心包経→三焦経→胆経→肝経→肺経に戻る
こんな感じで、エンドレスでぐるぐる回っていると考えています。
臓腑の陰陽は、臓が陰で腑が陽なので、臓の経絡は、陰経、腑の経絡は陽経と分けられます。
陰の経絡は足先からからだに向かって上昇し、陽の経絡はからだから足先に向かって下降して流れています。
これは自然と逆向きなのです。
温かいものは上昇し、冷たいものは下降する。
これが自然の物理的な現象です。
それなのに経絡は、陰の方が上昇し、陽が下降しているのです。
自然と反対の流れで回り続けることにより、外の世界とは区別された、一人の生きたからだとして存在できるんですね。
例えば、お風呂のお湯は、温めて循環させていれば湯船のどこでも適温を保ちますが、スイッチを切って放っておくと、翌日には上の方にぬるい水が、下の方に冷たい水が溜まっています。
このように自然と反対の動きをすることで、からだは保たれています。
それが、いったん外に出てしまうと、それにはもう気が通っていません。
気が枯れた状態、気(け)が枯れた=けがれ、なのです。
けがれたものは生命維持に関係ないものなので、からだにとっては不用で、かかわる必要のないもの。
そのために、不快な感情がわいて、自身から離しておこうとすると、考えられます。
遺体も、すでに気が通っていないので、魂(気は陽)は空へ上り、肉体(物質は陰)は土にかえります。
気が通っていないものは、すぐさま自然の物理現象に取り込まれていくのです。
ですが、親しかった人のからだをけがれたものと見ることはできません。
気持ちがまだ通っているんですよね。
涙も、さまざまな感情が乗っかっているから、汚いと思わないのだと思います。
とは言ってもあかの他人の涙はやっぱり触るのは嫌だし、、この感覚は案外と不思議なものですね。