ある日本兵の戦争体験記
患者さんではないのですが、96歳の方とお話する機会がありました。
8月だから戦争の話を聞いたという訳ではなくて、今インドネシアのジャカルタで開催中のアジア大会についての世間話から、戦争当時は隣のパプアニューギニアに行ってたんだよね、というお話を始められたのです。
実体験のお話は貴重かもしれないと思ったので、聞いたまま忘れないようにという意味も込めて、伺ったお話を書いてみようと思います。
・昭和17年の20歳の時に召集令状がきて、仙台飛行場(現在の仙台空港かと)に集合した。
・そこでだいたい北か南かどちらに行くかの指示が出された。
先に呼ばれた人たちが冬服を持ってくるように言われていたのを見て、北に行くんだな、自分は寒いのが苦手だから北は嫌だなと思っていたら、自分は夏服を指示され、ほっとした。
・その後、函館→広島へ移動し、マカオ→シンガポール→バリクパパン(インドネシア)→ティモール(インドネシアか東ティモールかは不明)の各港に滞在しつつ移動。ここで最後かと思っていたところ、その後パプアニューギニアに移動した。
・パプアニューギニアでは、整備兵として飛行場での仕事に従事。
港に到着した飛行兵を空港まで護衛することもあった。
出撃の時に飛行兵に持っているだけのタバコをあげたりした。
ーーータバコはどうやって入手したのですか?
・軍の指令室?に出入りできるようになっていて、タバコなどの備品を置いてある部屋があり、置いてあるものは持ち出してよかった。
・飛行兵は攻撃して帰ってくるものあり、整備不良で攻撃まで行かずに帰ってくるものもあった。
・別の飛行場では、爆弾を積んで突撃する特攻隊が出撃していた。
ーーー食料は支給された?
・そんなものはない。逃げ出した農家にあった干したトウモロコシ、畑の作物、畑の周りや森に生えているバナナやマンゴーなどがあり、食べ物には困らなかった。魚やカエルも食べたりした。田舎の出だから、そういうのには強い。
・ある時畑に生えていた植物を食べたら、食べた仲間みなおなかを壊した。後から来た医者?が、これはタバコの葉だ、と。
ーーーそんな生活で、精神的におかしくなったりは?
・自分は平気だったが、そういう人もいた。コメが支給されたときの竹筒をのぞきながら、ずっと何か言っている人を見た。
・いよいよ食料がないという時、パプアニューギニアに到着した時まで持っていた、出征の時親戚?近所の人?にもらった一升瓶に入れた酒盗(かつおの内臓の塩漬け)を森に置いていたのを思い出し、仲間と食べた。実は酒盗は苦手だったのだが、その時から食べれるようになった。こんなもの(すごいごちそうというニュアンス)、どこに隠してたんだ!と感激された。
・その後、パラオへ移動した。移動の途中、ペリリュー島(戦争末期の激戦地)で煙が上がっているのが見えた。
・パラオで終戦を迎えたが、帰りの船がなく?、なかなか帰れなかった。家族には生死不明証が届けられたので、その後(1年後くらい)に帰った時には驚かれた。
戦争の話を聞こうと取材した訳ではないので、ところどころ不明な点はありますが、かなり細かいところまで覚えていらっしゃるというのが驚きでした。強烈な体験だったということなんだと思います。
銃撃戦など命がけの体験はしなかったようなのですが、もしかしたらつらい記憶は忘れてしまっているのかもしれません。
とはいえ、話しぶりはどことなくユーモラスで、タバコの葉を食べておなかを壊した話など、笑い話のように話されていました。若かったからなのでしょうか。
最後に、そんなこともあってから、こんなに長生きしちゃいました(笑)と世間話のように締めくくられたのが、なんとも、彼にしか言えない言葉だなと、長生きすることの凄みのようなものを感じてしまいました。
でももうほんとに体験者から話を聞くことができる時間は短くなってきているのだな、と実感します。20歳だった方が96歳ですからね。。体験がつらくて話したがらない方もいらっしゃいますし、今回は貴重なひと時だったと言えるかもしれません。