徳永進「在宅ホスピスノート」の感想。
著者の徳永進氏は医師で、ホスピスケア専門の病院を開設され、在宅ホスピスを中心に医療活動をされていらっしゃる方です。
この本は、その活動の中でひとつひとつの看取りについて感じたことを中心にまとめてあります。
印象的なのは、徳永先生の死に対する目線のフラットさでしょうか。フラットだけど冷めているのではなくて、温かく穏やかな空気感があります。
それは、死を特別なものとして見ていないという簡単そうで難しいことを貫かれていることからきているように思います。
その延長線上に、在宅での死という選択を尊重する姿勢があるのだと感じました。
いろんな人の最期までが書かれていますが、どの人に対しても等しく真摯に向き合い、その人にとってベストと思われる最期となるよう、医療的処置はもちろんそうだけど、家族と話し合ってやりたいことを叶えてあげたりなど尽力されている姿が描かれていて、とても温かい気持ちになります。
庭で育てられている野菜。
箪笥の上に雑多に並んだお土産物。
となりの台所から漂ってくる煮物の香り。
徳永先生は往診に訪れるたび、そういうものに関心を寄せます。
その描写が、家で亡くなるとはこういうことなんだなとリアリティをもって迫ってきます。
さらに患者さんの言葉、過ごしてきた歳月、そういうものに触れる度に、先生はそのひとつひとつをかみしめて、答えのない答えを思いめぐらせています。
読み進むにつれ、死は特別ではない、何気ない日常の先に死があるのだと思うのと同時に、その絶対的な尊さにも気づかされるというか、胸にせまる思いが湧きます。
在宅と言えどホスピスなので、医師としてこれやってあげて、あれしてあげて、というポジティブな活動はどちらかというとあまりなくて、症状に合わせて鎮痛剤の量を変えたりなど、見守りに近いです。
看護師さんは口腔ケア、排せつケアなどこまごましたお仕事が多いけれど。
徳永先生のホスピスは、その人に近づいてくる死を、本人とともに家族がいる人は家族と、いない人はスタッフと一緒に受け止めて、死までの旅路をともに行く、という活動なんだなと思いました。
エピソードのなかでは、患者さんが亡くなった後、妻(患者さん)が見たかったシャクナゲが咲いたのでという知らせを聞いてそれを見に行ったところ、家の裏の使われなくなった水田跡に患者さんが種をまいておいた菜の花も咲いていて、その帰り道に、その道すがらにもまとまって菜の花が咲いているところがあって、患者さんのご主人が、ここは種を持ち帰る時に妻がつまずいてこぼしてしまった場所なんだという話が印象に残りました。
生と死は断絶していなくて、つながっている、というのを、言葉じゃなく感じ取れるお話しのような気がして。
孤独死について最近よく取り上げられた記事をみます。
一人暮らしが増えれば仕方のないことかもしれない。
だけど、家族じゃなくても、医療関係者でも、その人を知り、どう過ごしたいか聞いてくれて、一緒に最期まで付き合ってくれる人がいたら、やはりそれは幸せな死路だろうと思います。
在宅ホスピスを選択するのは勇気が要るし、家族も覚悟がいる。
大変なことだと思いますが、その気持ちをここまで尊重してくれる人がいたら、ほんとに心強いことだろうと感じました。