その「不安」はどこからやってくる?
日常感じるネガティブな感情といえば、不安な気持ちということが多いのではないでしょうか。
不安とは、
[名・形動]気がかりで落ち着かないこと。心配なこと。また、そのさま。「不安を抱く」「不安に襲われる」「不安な毎日」「夜道は不安だ」(goo国語辞書)
と辞書にもありますが、自分がこの先何かに脅かされるような、漠然とした恐怖を感じている状態とも言えます。
漠然とした感情、というところがポイントなのかなと思います。
将来のこととか、子供の成長とか、人間関係とか、自分ではハンドルしきれないところに対する心配とも言えますね。
東洋医学では、からだの偏りによって感情も左右されるという考えがあります。
不安に関していえば、腎虚証の人は五感が「恐・驚」なので、不安がりやすいと解釈します。
ちょっとのことで驚いたり、些細なことも怖がったりするということです。
腎が虚すと、腎が持つ堅める力が弱くなるので、からだの軸がしっかりしないため気持ちもふらふらしてしまいます。
また、腎は五神のうち「志」を持ちますので、腎虚のときの心は志が弱まった状態になっています。
自分はこうやっていきたい、あれを目指すんだ、という気持ちが弱いということは、どうしよう…という迷いや不安が生まれやすくなるのです。
要するに、五臓に虚がなければ、不安という感情に苛まれることはないということなんですね。
最近の研究では、血糖値の値によっても不安感が増したりすることがあるとしています。
血糖値が高い時は多幸感や万能感が生じやすく、その後インスリンが分泌されて低血糖になると一転不安やイライラなどネガティブな感情が生まれやすくなるということがわかってきています。
また、女性ホルモンのバランスの乱れによって感情が不安定になりやすいということは、女性の方の多くが経験していると思います。
他にも、天気や季節の変わり目などでも不安感が増すことがあります。雨が降りそうなときや、夏から秋になる時などですね。
このように考えてみると、とある状況にあった場合は不安になる、という絶対条件は存在しないと言えるのかもしれません。
例えば将来のことなどに対して、同じような条件下においても、全然不安に思わない人もいれば不安で仕方ないという人もいます。
50代の方で借金無しで5,000万円貯金があっても不安でしょうがない、という相談記事を見たこともありますし、貯金がなくても全然悩まない人も少なからずいます。
おそらく不安という感情は、予測されるネガティブな状況を受け止められるかどうかで発生するかしないかが決まるのかなと思います。
今予測可能な範囲で自分のできる準備や対策をして、あとは天命に任せるということができるかどうか。なのですよね。
だから、こころやからだの状態がしっかりして力がある時はあまり不安を感じないのでしょう。
不安な気持ちが湧き上がってきた時、今天気が悪いからだなとか、疲れているのかもと自分の状態を客観視できると、不安そのものに取り憑かれることなく、気分は悪いかもですがやり過ごすことはできるのではないかと思います。
生きているとは、自然に逆らうこと!?
昨日、テレ東の「家ついてっていいですか?」を見ていましたら、取材をされた方の故郷に約50年ぶりに帰ってみるという特別企画をやっていました。
帰郷先はかつて北海道の炭鉱で栄えた町。
現在は炭鉱も閉鎖されているので、彼は町は寂れているだろうと予想はしていたのですが、実際行ってみると想像以上に何もなくなっていたんですね。
特に実家があったところは、両親が入植して開墾したはずの土地が草木に覆われてしまっていました。
それを見て彼が、両親がきた時はこんなだったんだろうな、そんな初めの姿に戻ってしまったとの趣旨の言葉をつぶやきました。
人が耕して田畑を広げ家を建てた土地でも、何十年か放置されると元に戻ってしまう。
その土地のあるべき姿になっていってしまうのか、、と見ている側も考えさせられました。
そこに同じように人が住み続けていれば、人の住む環境は保たれていたはずです。
この横浜のように、開発された山が木に覆われたりすることはないのです。
このことは、人のからだにおいても同じだなと思いました。
人のからだが人として存在するには、自然に逆らっているという側面があります。
自然においては、冷たいものは下降し、暖かいものは上昇します。
ですが、人体内においては、陰の経絡は下から上に、陽の経絡は上から下に流れています。
能動的に物理現象と逆の動きがあるから、全身が温まり、その熱で活動でき、それを制御できているんですね。
そういうふうに気が通っているから、気が全身をめぐっているからそれが可能なのであり、逆に言うと死とはそういった気の活動が停止した状態といえます。
なので、死ぬと、陰である肉体は陰である下へ、つまり土へ還り、陽である魂はからだから抜けて天へ上っていく、つまり自然と同化していくのです。
また、人のからだから排出されたものは穢れたものとされますが、けがれ=気枯れで気がなくなったものという意味で、それらは自然と同化します。
以前もこのお話しにふれましたが。
subaruhari9.hatenablog.com
このように、人(生き物)は自然に逆らった存在なのに、季節や昼夜のリズムに応じた生活をすることが大切、自然に逆らわずに生きるのがよい、と言われます。
このことは東洋医学の基本でもあります。
これはどういうことなのか。
人のからだは自然と逆の動きをしているからこそ存在しうるとはいえ、自然から断絶しても生きていけません。
生命活動のエネルギー、つまり気を巡らせる原動力はよそから、つまり自分を取り巻く自然からしか得られないからです。
食べ物にしても、暖かさなどの気候にしても、自然から得たものを利用しなければ死んでしまいます。
ということであれば、エネルギーをより有効に利用するために、できるだけ効率よくそれらを得ることが必要になってきます。
それが、季節などの自然のリズムに合わせた生活ということになるんですね。
夏には夏の暑さを利用して活動し、冬は冬の寒さに逆らわず引きこもり、その時々に採れる一番栄養がある食べ物を摂る。
そうすれば、からだへのダメージも少なく済み、命を長らえることができるよと。
そういうことを、東洋医学ではあれこれ説明しています。
自然に逆らった存在を存続させるには、自然に従った生活をすることが大事、とはなんとも矛盾に満ちた話ですが、生物の存在自体、自然界から見たらヘンなもの、矛盾したものなのかもしれないですね。
生きてるということは、ほんの数十年、人体という自然から独立した存在を与えられた状態だといえます。
せっかくなのでできるだけ効率的に長らえるよう、自然に合わせて生活してみてはいかがでしょうか。
現代社会、なかなか難しいですが。
よいと悪いのあいだに
鍼をして痛く感じるところとそうでないところがあるけれど、痛いのはそこが悪いのですか?
と尋ねられることがあります。
私の脈、変ですか?とか。
気になるよな、と思いつつも、聞かれると案外回答に困る質問ではあります。
病院などでは、喉が腫れていますね、骨にひびが入っています、数値が基準を超えています、など、「悪い」ところを見分けやすいかと思います。
健康な状態ではないとされるところ、病変箇所を「悪い」と考えればよいからです。
逆にどんなにからだがだるくても、例えば血液検査で異常がなかったりすると「悪い」状態とはみなされません。
頭痛がしても、「悪い」ところがなければ、痛みを抑える薬が処方されるだけです。
東洋医学では、「よい」と「悪い」の境界線がありません。
健康、という概念がないともいえます。
完璧に健康な人は存在せず、すべては程度問題なんですね。
偏りが大きくなってからだに具体的な影響が出れば、それに対して直接治療するだけではなく、その偏りを正すというやり方をします。
正すと言っても、完璧な健康状態を目指すのではなくて、その人が持って生まれた偏り(素因)の状態に戻すことを目指します。
そもそも、すべてのバランスが完璧に整った人は生まれてくる必要がない、と東洋医学というか東洋思想は考えます。
偏りがあるから、他の人と混ざりあい、補い合えるのです。
お城の石垣にキレイな立方体や球体は無いし、あっても使えないないように、いろんな形があるからこそ役立つ場所があるということなんですね。
東洋思想、深いな。
今の世の中、少しでも問題があると、そこから排除される傾向にあります。
人と違っているところがあるといじめられたり。
同じことができないと居づらくなったり。
でも、完璧を目指すその先には、誰も残らない。
なぜなら人は偏り、つまり(完璧からみた)ダメなところを持っているからです。
それならば多様性を受け入れて、補い合う方がむしろ効率的なはずなんですよね。
いわゆる西洋のほうがそっちの方向に進んでいるのが、なんとも皮肉な状況だなと思います。
どこか悪いのかと尋ねるその奥には、「悪い」ところはなくしたい、少しでも「よい」状態でいたいという考えがあるのかもしれないと思います。
その「よい」も「悪い」も具体的な、絶対的な基準て実は存在しなくて、悪いところがあったらどうしようという不安と、大丈夫と言われて安心したいという気持ちがあるような気がします。
なので、どこか悪いところありますか?と聞かれても、大丈夫ですよ~としか答えないと思いますので、期待(?)はしないでいただればさいわいです(笑)。
タマシイにも働きがあります
たましいって、あいまいな概念ですよね。
からだに宿っていて、亡くなった時、肉体から遊離するとか、たましいを込めて歌うとかいろいろな使われ方をしています。
人間死んだら終わり、じゃないだろう、そう信じたい。
やっぱり最後は気持ちが大事。
たましいとは、そんな思いの表れなのかもしれないなと思います。
東洋医学の概念にもたましいは登場しますが、扱いはもっとドライです。
五行のうち、「五神」という分類があり、人のこころやからだの活動を支えている存在を示しています。
肝・心・脾・肺・腎
にそれぞれ対応するのが、
魂・神・意・魄・志
ですね。
魂=気の活動を支える
神=精神活動全般を無意識下で支える。
気を失うことを失神と言いますが、神が働けてない状態ということができます。
意=記憶や思考活動を支える
魄=肉体の活動を支える
志=意志(どうしたいか)を支える
ざっくり、働きはこんな感じです。
とりわけ、魂魄という言葉もあるように、いわゆるタマシイに該当するのが肝の蔵する魂と、肺の蔵する魄です。
陰陽で分けると、魂=陽、魄=陰となります。
肝=春=発散=陽、肺=秋=収斂=陰ということです。
そのため、気(=陽)、肉体(=陰)をそれぞれ支えているのです。
魄という漢字は、肺の五行である「白」と、霊を表す「鬼」が組み合わされてるのでわかりやすいですね。
人が亡くなると、魂はからだから抜けて上昇していきますが、魄はからだに留まり、肉体とともに土に還るとされています。
つまり、上・外向きの気が魂で、下・内向きの気が魄といえます。
行動したり、人と話したりというオープンな活動を魂が支えている訳ですが、魄の支える下・内向きの活動ってなんでしょうか?
人のからだにおける下向きの力が必要なのは、出産や排泄です。
魄のちからがないと、これらがスムーズにいかないと考えられているんですね。
魄を蔵するのは肺ですが、肺の表裏関係にあるのは大腸です。
魄は大腸の活動を支えています。
五行説ってこうしてきちんと繋がるのがすごいですね。
排便後、ぐったりする場合がたまにみられますが、これは魄が抜けてしまった状態のためにおこるとされています。
医学的には迷走神経反射の一種で、自律神経の一時的な乱れからきているのですが、実際の生理現象を東洋医学で説明できるのは興味深いです。
しっかりした精神活動を行えるのはからだがしっかりしている必要があるし、五神がしっかりしていれば、からだを支えることができます。
こころとからだは、不可分です。
どちらかにだけ無理をしないように、日々生活できるとよいですね。
からだの中はキレイです。
最近、血液クレンジングが話題となりました。
この健康法?は以前からあったようなのですが、芸能人などのインフルエンサー?により広まったみたいですね。
クレンジング、という名から血をきれいにしてくれるイメージが湧きますが、実際は静脈血にオゾンを混ぜて再び血管に戻すということらしいです。
赤黒い血がオゾンと混ぜることで鮮やかな赤に変わるので、見た目にも血液がきれいになったように見えるのですね。
この療法が、どうなんだろう?と思う点はいくつもあります。
血液の色について
赤血球のヘモグロビンを構成するヘム鉄は、酸素と結びつくと赤色になる。(鉄が錆びる(酸化する)と赤くなるのと同じ。)
そのため、肺から酸素を取り込んだ血液はきれいな赤い色をしている。
肺からの血液は、心臓に行って拍動によって動脈を通り、からだの隅々の細胞まで酸素を届ける(動脈血)。
細胞に酸素を供給したら、細胞内で発生した二酸化炭素を回収し、静脈を通って心臓を経由して肺に戻る(静脈血)。
静脈血は、酸素を手放した後の血液なので、赤黒い色になっている。
血液クレンジングは、酸素を手放した静脈血にオゾンを混ぜるので、ヘモグロビンが酸素と結合して明るい赤色になる。
オゾンを混ぜる意味について
オゾンは酸素原子が3つ結合した分子。(酸素は酸素原子が2つ結合している。)
静脈血は、細胞に酸素を供給した後肺に行って二酸化炭素を放出して酸素を受け取る。
肺に帰る途中である静脈血にオゾンを混ぜても細胞には届かず、結局に肺に戻って酸素を受け取ることになる。
オゾンは不安定な分子で、酸素になろうとする性質が強い。
酸素になる時(O3→O2)離した酸素原子が他の物質を酸化させるのだが、殺菌に使われるほどその作用は激しい。
もともとの血液クレンジングの目的は、こうしたオゾンの強い作用を用いて、がん細胞や肝炎ウイルスの増殖を抑えようとしたところにあると思われる。
とはいえ、採血するのは100ccほどということ。
それは全血液の約2%に過ぎないので、からだに影響を及ぼし得るかは不明。
それに赤血球の寿命は約120日なので、赤血球の改善になるかどうか。。オゾンが赤血球を作る骨髄の細胞に働きかける作用があるのか。。それはそれで怖いが。
血液クレンジングは、名前がキャッチーなのもやってみたくなる要因のひとつなのかなと思います。
血液は汚れてなどいないのですが。
自分の血を少し取り出してまた戻すだけなので、直接的にはからだに良くも悪くもない作業だとは思います。
とはいえ、血液をいったん取り出して戻す過程において、感染症のリスクがゼロではないという危険性もあります。
オゾンも量によっては猛毒(強酸化作用のため)です。
黒い=汚い、鮮やか=きれい、という単純なイメージに飛びつかず、それがどういう意味があるのかを自分なりに考えてからやってみることが必要なのではないかな、と思います。
だいたい、大脳がよかれと思うことは間違っているんですけどね。↓
subaruhari9.hatenablog.com
健康法を試せる時点で、健康なんだと思います。
自分のからだを、もっと信用してあげてもいいんじゃないかな。
スピッツ16thアルバム「見っけ」をレビューしてみます。その3
スピッツのニューアルバム「見っけ」のレビュー3回目。
9はぐれ狼
シンプルなロックナンバーで一息、という感じでしょうか?
タイトルやイントロがワイルドなのに、Aメロに入ってちょっとフラットになるので最初は、ん?となりましたけど、ギターのリフがいいです。
ロックって、突き詰めていくとクロマニヨンズみたいなシンプルなエイトビートに向かうのかなとかなんとなく思っていましたが、そんな単純ではないんだなと思いました。
やっぱりバンドごとに違うし、それがよいのですね。
10まがった僕のしっぽ
イントロのフルートでそうきました?と思ったら、あれ?ワルツのリズムですか。からの→まさかのヘビメタですよ!
3拍子って割と楽し気な曲に多いと思うんですが、メロディーはマイナー調だし、いろいろチャレンジングな曲です。
マサムネさんはデビュー当時、自分の声が好きじゃないと言っていたそうですが、確かにヘビメタがヘビメタに聞こえない透明感のある声は、やりたい音楽との差を感じたかもしれないですね。
バンドサウンドがあれだけドカドカしてるのに、彼のボーカルが乗っかると切ない感じになってしまうとは。
歌詞もアウトローな内容ですが、今までの引きこもった感じからもっとたくましくなっていてカッコいいですね。
まがった僕のしっぽとは、一般的な世間とは相容れない、どうしても譲れない自分の信念を言ってるのだろうなと思います。
リズムがヘビメタ部分の歌詞はなかなかのハードボイルドさで、今スピッツがこの歌詞を歌うというところにとても意味を感じます。
ヘビメタのあとはまた最初のメロディに戻るのですが、ハードな部分が哀愁あるワルツのリズムに挟まれているのが、熱い気持ちを内に秘めてる感じがしていいなあ。
まがったしっぽを下ネタで解釈する向きもあるようですが、マサムネさんご本人もそれはわかっているとインタビューで話していました(笑)。
11初夏の日
10年以上前に京都公演限定で披露されていた曲とのこと。
そういうこともライブはあるんですね。聴いたことがある人うらやましいな。
スタッフさんが今回のアルバムに入れることを提案したそうですが、アルバムの雰囲気にあっていていいですね。
素敵なふたりの話、”朱色の合言葉 首筋をくすぐる”って、キスのことかな?なんて想像を巡らせていたら、”そんな夢を見てるだけさ”って?それ夢だったの!?
Cメロで前向きになった感じしたと思ったらサビでまた夢と言われ、なんだか気持ちの置き所に迷ってしまう歌ですが、メロディがとても美しいのでそんなのどうでもよくなって、聴くたび毎回曲に身をゆだねてしまいます。
12ヤマブキ
出だしから声を張ってるし、バンドもドン、ダン、ドーン!って突き抜けちゃってるし、サビではまた高音で声を張っているし。
最初からずっと声張ってる曲って、スピッツではあまりないと思うんですよね。
低いところからサビにかけて上がっていく曲が多い。なのに。
歌詞も”突き破っていけ”とか、”よじ登っていけ”とか元気がいいんです。
全然小さくまとまってない。
そんな若い時もあったね、という懐古的なことでもない。
ボーカル以外だって、ギターも音歪みまくって熱いし、リズム隊もがっつり支えてますって感じで。
アルバムの最後の曲がこれだもんね。
いろいろ周りが言おうとも、スピッツはこんな感じでこれからもやっていくんで!と宣言されているみたいで、ファンとしてはなんとも嬉しくなる曲です。
13しばらく聴いた後の感想
なんでもそうですが、長く続けていると円熟していきコクのような重さや奥行きが出てくるものだと思うのですが、このアルバムはそんな後味を楽しませてくれる一方で、一口目の爽快な気持ちよさにほんとに驚かされました。
音のバランスのよさ、曲の完成度、熟練の技による演奏や歌唱などが安定感と安心感をもたらしてくれるからといって、それが渋い大人の楽しみに収まっていない。
このアルバムは、若作りしないそれなりの年相応の見た目なのに、いつまでも変わらないと言われるスピッツの現在そのものの姿なんだなと思います。
世間の求める、ポップで少し暗いでも前向きな、という従来のスピッツ像に寄せることもなく、かといってわかる人だけわかればよいという意固地な姿勢もなく、自然体で自分たち独自の道を「見っけ」ている訳で、こういう道をたどれるスピッツに感動すら覚えました。
年齢によってそれなりの生き方とか考え方を求められがちだし、そうあるべしという圧力もあるけど、自分らしく生きる道も「見っけ」られるんだなという希望が湧いてくる、とっても素敵なアルバムです。
おわり。
スピッツ16thアルバム「見っけ」をレビューしてみます。その2
スピッツのニューアルバム「見っけ」のレビュー2回目。
4ラジオデイズ
スピッツによるラジオ讃歌。
ラジオ大好きというマサムネさんの思いのこもった曲になってます。
具体的なテーマの歌は珍しいですね。
”空気を揺らしてくれる”
”ノイズをかきわけて 鼓膜に届かせて”
などの、ラジオの音についての表現が素敵だなあ。
Cメロの3連符が続くところなんか、ラジオに対して溢れんばかりの思いが止まらないって感じがして胸が熱くなります。
ラジオ漬けというわけではなかったけど、まあ同じ世代なのでラジオにはやはり思い出も多くて、そんな曲をスピッツが歌ってるのは感慨深いです。
5花と虫
爽やかなスピード感、前向きな感じの歌詞。どことなく哀愁も漂う。
個性あふれる、というわけではないけれど、気持ちいいメロディーとサウンド。
言ってみれば、「見っけ」の12曲全部混ぜてできあがったような曲って気がしました。
タイトルは花と虫なのに歌詞には虫が出てこないんだけど、これは虫の目線の歌なのかも?
そう思って聴くと、ちっちゃな虫が頑張って生きてるというような歌なんだなって思えて、ぐっときます。
6ブービー
なんとなく、外国の絵本を読んでるような気持ちになる曲でした。
昔の洋楽のような雰囲気もあり?(ない?)不思議な世界に連れていかれる感じがします。
”いつもブービー”
”君が好き”
”レモン風味”
”軽い罪”
と、さりげなく脚韻が踏まれているのが耳に残って、ゆらゆらしたリズムを感じるんですよね。
ちょっと弱気な男の子の片思いの歌かな?
”たまに怒らせる”ってあるから、片思いの子とまったく交流がない訳じゃないのかな、ならよかった、と妙な親心も発動する?歌です。
7快速
タイトルそのままに、快速列車に乗っているような気分になります。
それも新幹線じゃなく、東海道線のようなボックス座席で窓が上に開くようなタイプの。
”つり革 揺れてる”って歌詞もあるし。
顔に風を受け、田園、街並み、海、夕日、、どんどん変わっていく風景をみながら、これから行く先に思いを馳せる感じがリアルだなと。
会いたい人がいて、気持ちも急いているのかな。
意を決して出かけた感じもしますね。
”草原のインパラよりも速く”って歌詞が好きです。
8YM71D
YM71Dってなんだ?と発売前からざわついていましたが、”やめないで”なんですね。
ちょっとエッジの丸いカッティングのファンキーなリフが曲の最初から最後まで繰り返されていて、軽妙な楽しさのある曲ではないでしょうか!
メロディもわかりやすくて気持ちいいですね。
”少しサディスティックな”って歌詞の、メロディへの乗っかり方がなんともオシャレ。
すごく人気出そうな曲です。
そして久しぶりに、あ、これ実はエロい歌、、だよね、と思わせる歌詞になってます。
歌詞のどの部分がどうとは言いませんが、やめないで、だし。。
付き合い始めたばかりでお互いに近づこうと懸命な二人が、ちょっとずついちゃついてく様を妄想してニヤついてしまうのですが、そんな気持ちとギターのリフがシンクロしてるような気がします。
こんなオシャレな曲に部品の品番みたいなタイトルをつけるセンスが素晴らしいな。
”演じてた君に恋して 素の君に惚れ直して”
この歌詞がまた素敵なんですよ。
出会ったときは女の子らしさをアピールしてて、それがかわいくて好きになっちゃった。付き合うようになってリアルなとこも見えてきちゃうんだけどそれも好き、とかもう。
ニヤニヤします。
やはり長くなってきたのでもう一回分けて書きます。